小野篁神社
(おのたかむらじんじゃ)
小野篁神社は小野神社の同じ境内に鎮座しています。平安時代の歌人で、すぐれた官僚でもあった小野篁をお祀りしています。重要文化財の本殿は1341年頃に建立されたものです。
小野篁(おののたかむら)
小野篁は遣唐使で有名な小野妹子の子孫で、延暦21年(802)に生まれ、仁寿2年(852年)に没した平安時代前期に活躍した官人、学者、歌人です。
小倉百人一首の「わたの原八十(やそ)島かけて漕(こ)ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟」は小野篁が詠んだ歌としてよく知られています。
地獄を往復して閻魔大王を補佐していた等の逸話が多い小野篁ですが、京都市には地獄へ入る為の井戸があった「六道珍皇寺」やこの世に戻る井戸があったとも言われている「千本閻魔堂」が小野篁と由縁がある寺としてよく知られていますが、大津市に小野一族を生んだ土地があり、小野妹子の墓、小野道風、小野篁を祀る神社があり、明治の時代にすでに国の重要文化財に指定されていたこともほとんど知られていません。
小野篁神社の御祭神
小野篁命(おののたかむらのみこと)
小野篁神社の所在地
滋賀県大津市小野
小野篁神社への電車
JR湖西線「和迩」駅下車、南へ徒歩約15分
JR湖西線「小野」駅下車、北へ徒歩約15分
小野篁神社の由緒
▼下の文章は小野篁神社の境内に掲示されていた由緒書を再録しています。
学問・使節の神
小野篁神社
(祭神・参議小野篁命(たかむら))
平安前期(西暦八〇二~八五二年)、参議岑守の子、漢学者、歌人。西暦八三四年遣唐副使を命じられ、八三六年に出発。しかしこの度は暴風雨にあって遣唐使の目的を断念する。八三八年再度、遣唐副使に任じられたが大使藤原常嗣との折合いが悪くなり渡唐をとりやめる。この時「西道謡」を作って遣唐の役を風刺した為、嵯峨上皇によって篁は隠岐島へちっ居される。三年後許されて帰京、昇進を重ねて参議、従三位となる。「参議」は太政官の官名、政務審議の構成員で大、中納言につぐ要職である。
篁は漢詩文にすぐれ勅を奉じて「令議解」の撰進に参加している。篁の詩は「経国集」「和漢朗詠集」「扶養集」「本朝文粋」に収められ、和歌は「古今集」に六首、「篁日記」は後人の作で、篁の歌を中心とした歌物語である。
相公、野宰相ともよばれている。
百人一首に『わたのはら八十島かけてこぎいでぬと人には告げよあまのつりぶね』の歌がある。
社殿は祭神の古墳上にある。建物は旧国宝、現在重要文化財である。
▲上は小野篁神社の境内に掲示されていた由緒書を再録しています。